(第五十六回)
松枝译文:すると湘雲が彼に向かって、「あなたもこれからは大っぴらにお悪戯が出来るわけですね。今までは『生糸一本きりでは糸成れぬ、木一本きりでは林に成れぬ』というところでしたが、こんど立派な相棒が出来ましたわね。お悪戯が過ぎて、またひどくぶたれなすったときには、南京のあの方のところへ逃げていらっしゃればよろしいわね」
伊藤译文:湘雲は彼に向かってこういうのでした。「あなたも安心して羽目をおはずしになることですね。以前は『生糸一本では糸には縒れぬ、樹も一本では林になれぬ』というものでしたけれど、こんどこうして似合いのお相手もできました。大騒ぎをやらかしたあげく、またぞろひどく打たれなさったそのときには、逃げ出して南京まであちらを訪ねていらしたらよろしいわ」
例2中,原文“单丝不成线,独树不成林”在形式上不仅简洁精炼,更是上下句每字互相对照,形成对偶。再看两个译文中,似乎在形式上也是相对应的。然而仔细比较可以发现,两个译文中都不是完全对照。松枝译文 “生糸一本きりでは糸成れぬ、木一本きりでは林に成れぬ”中“生糸”与“木”形式上不对应,伊藤译文中“生糸一本では糸には縒れぬ、樹も一本では林になれぬ”中“糸には縒れぬ”与“林になれぬ”不仅字数不同,且使用动词也不同,不对应。所以译者在翻译中文具备形式美的俗语时,由于中日汉字词汇意义并不一一对应,且不同译者翻译选择不同,故而难以做到完美还原中文原文的形式上的美感。
(三)内容翻译之难
俗语往往多用比喻、引申等修辞手法表达意义。比如:
例3:当日你们原是和金陵王家连过宗的,二十年前,他们看承你们还好;如今自然是你们拉硬屎,不肯去亲近他,故疏远起来。(第六回)
松枝译文:むかし当家は金陵の王家の一族に加えてもらったことがあって、二十年ほど前までは、あちらさまでもずいぶんと目をかけてくださっていたようじゃった。ところが今日びじゃ、いつのまにやらこちらの方でも硬糞ひるちゅうあんばいで、ついご機嫌伺いにも行かぬもんじゃで、だんだんと疎遠になってしもうたのでしょうがな。
伊藤译文:以前、おまえさんとこは金陵の王家の一族に加えてもらわれ、二十年前には、あちらでもなかなかおまえさんとこの面倒をみてくださっているようじゃった。それが今日びは、無論おまえさんの方でかた意地はって寄りつこうともせぬからじゃが、遠くなる一方というわけよ。
原文中的“拉硬屎”比喻硬装清高,是汉语惯用语中特有的表现形式。中日两国之间由于社会环境、地理环境、民族心理等存在差异,因此两国人民思考方式、看待问题的角度以及解决问的手段都存在不同,所以反映这种认知差异的比喻、引申等语义生成方式上多少也会存在差异。比如例3中原文的“拉硬屎”如果直接放在日语中,对于日语母语读者来说很难理解,因此译者在翻译类似的表达时就面临一个问题,该不该保留此类表达方式的原始形式。如果保留不加以解释,则目标读者难以理解,若之保留其比喻意义,则形式上有损失。显而易见,松枝译文和伊藤译文对于这一问题刚好是不同的选择,其结果也不难推测。
俗语中除了常用比喻、引申等修辞手法表达意义之外,也会经常出现文化典故。比如:
例4:彩霞咬着嘴唇,向贾环头上戳了一指头,说道:“没良心的!狗咬吕洞宾,不识好人心。”(第二十五回)
松枝译文:彩霞は唇をかみ、賈環の頭を指さきで小突いていった。「人でなし!『犬が呂洞賓に吠えつく(よしあしの見分けもつかぬ)』くちょ、あなたは!」
伊藤译文:彩霞はくちびるを嚙み、環の頭を一本の指で小突いて、「恥知らず!それこそ『洞賓(唐の仙人呂洞賓。八仙の一人)さまに吠えつく犬――親切な人にも見さかいなしに』というものでしてよ」P913
例4中,原文“狗咬吕洞宾,不识好人心”源自《八仙得道传》。据记载,哮天犬私自下凡为祸人间,吕洞宾奉命去收降,哮天犬被收入法宝“布画”后,吕洞宾担心哮天犬困于其中被化成灰,心生慈悯,放了哮天犬出来,结果反被不知好歹的哮天犬趁机咬了一口,由此有了这个典故。中日两国神话体系随着其发展早已大相径庭,因此日语母语读者对于这一典故是难以理解的。两个译文中都通过括号内的内容对其进行了简单的解释,并在文后添加注释解释,尽量还原了此典故内容及其意义,但在文中加注降低了译文流畅性,文后加注加大了目的语读者的阅读难度。但为了尽量还原原文所传达的内容,此类方法已是上解。